ログインヨハンと同じ焦げ茶色の髪に濃厚な琥珀色の瞳。髪はふんわりとボリュームのある癖毛だが、それが妙に小さな顔を際立たせて綺麗だとは思う。
だが、どうにも所作一つ一つが下品なことで虫唾が走る。 イルゼはリンダと目を合わせぬように、煮えたぎる鍋を見つめた。 「鶏の処刑人の朝は早いのね。どう景気は良いかしら? そういえば、私さぁ今月のアレを貰ってないわ……」 リンダの言葉にイルゼは黙りとしたまま、心底嫌そうに彼女に目をやった。 「今月の何」 「何って、馬鹿ね。私の家族費よ?」 家族費。つまり、養鶏業で稼いだ収入のうちの三分の一を寄越せとのことだ。 ……ここで働いてもいない癖にこうしてリンダは度々金をせびりに来るのである。 ヨハンが何度も咎めているが、どうにも実の妹という部分で甘い部分もあるのだろう。泣いて縋られてしまうとヨハンも叶わぬようで、毎度仕方なしに金を渡す。 だが、これで味をしめたのか、リンダは毎月のように請求に来るのだった。 当たり前のように、イルゼからしたら腑に落ちない。 それに義姉だって仕事をしているはずだ。それも養鶏業よりも確実に金になる仕事をしているのに……。 リンダは街の中心地とも呼べるひばり横町の酒場で働いている。 それも住み込みだ。酒場とはいえ、ただのウエイトレスでない。娼婦まがいなことをして金を巻き上げているのだ。 ヨハンはこれを知らない。少し前、ヨハンが熱を出した時、仕方なしにイルゼが代わりに早朝の街に配達に出掛けた際、通りかかったひばり横町の裏路地で彼女が男と口付けを交わす姿を見て悟ったことだった。 真っ赤なルージュを引き、派手な化粧をして裸同然のみすぼらしい格好で男と乳繰り合っていたのだ。首筋には、真っ赤な赤い花。それは男女の交わりを彷彿させるもので、きと売春は黒だろうと思った。 リンダはイルゼの視線にすぐ気がついた。 それも微塵も動じず、乳繰り合っていた男に強姦まがいなことを指示して脅しにかけてきたのだ。 『兄さんに言ってみなさいよ。男たちに頼んで、あんたの四肢を切り落として売り飛ばしてやるわ。あんたは根暗だろうと殺人鬼の娘だろうと顔だけは良いからね。鶏の処刑人を抱きたいって物好きが精液便器として可愛がってくれるんじゃないかしら?』 その時は、身体をまさぐられただけで純潔を奪われずに済んだが、義姉のことならば言った通りのことをやりかねないと思った。 ……元々やや傲慢な気質ではあるが、それでも明るい義姉だった。 しかし、父の事件後から途端に冷たくなり、自分を憎み嫌うようになったのである。 『あんたの父親が居なければママは死なずに済んだ』 『この疫病神』 『死んでしまえ』 髪を掴まれ、そんなヒステリックな罵声を何度も浴びた。 井戸に突き落とされそうになるなど、殺されるのではないのかと思えたことだってある。 さすがに報復が恐ろしくなり、自警団はおろかヨハンにだって言えやしなかった。そもそもだ、自警団に関しては自分があの殺人犯の娘だと分かっているので、言ったところで信用されないとイルゼも考えずとも分かっていた。
「……現在イルゼがいる場所は、城の東側。塔の真下にある図書室だった。 こぢんまりとした空間だが、背の高い本棚がぎっちりと並んでおり、その中も所狭しと本が詰まっていた。 見たところ古い本が多い。真新しいものもそれなりにあるが、殆どの見出しが色褪せていた。しかし、なぜに一人で図書室の掃除をしているのか。その理由は、昨日ミヒャエル本人に直々に頼まれたからだ。 ────重要な文献なんて置いていないけれど、どうにも使用人たちは入りにくいらしい。たまに俺が日干しに行くけれど、結構埃が積もっている。悪いが、お願いできるか? と、そのような旨の書かれた手紙を渡されて、イルゼはすぐに快諾した。 炊事の下ごしらえに洗濯に掃除と使用人の仕事は山のようにある。とはいえ、掃除に関しては、一日ですべてを終わらせるわけではないそうだ。 何やら、掃除箇所を数日に分けて回しているらしい。 しかし、自分が加わったことによって確実に効率が良くなったのだろう。循環があまりに早く来ることから、メラニーも戸惑っていた。 さすがに使用人たちの仕事を余計に奪うのは良くないと思えたので、イルゼは彼のお願いが丁度良いと思った。 けれど本当に、図書室は掃除をしていなかったのだろう。インクに埃とカビの臭いが混ざっており、部屋に踏み入った時は思わず鼻を摘まむほどだった。 すぐに換気をしたが、染みついているので臭いは簡単に剥がれない。 それでも、さすがに数時間もいれば慣れてしまう。イルゼははたきを持ち、脚立によじ登って再び本棚の上の埃を払い始めた。 そうして、幾許か。 本棚の上の掃除を終えた頃には壁掛け時計の針が丁度午後五時を示していた。あと二時間ばかりで夕食の時間となる。 まだ日も沈んでもいないので、六時くらいは粘ろう。 やり切れなかった分は明日に回せば良い。そう思って、イルゼは本棚の中の掃除を始めた。 とりあえず、面倒臭そうな分厚い文献が詰まった棚から始めることにした。 一冊如き大した重量でないが、二冊三冊と欲張って持
六月上旬。初夏に差し掛かり、すっかり日の入りが遅くなった。 現在午後四時に差し掛かるが、いまだに太陽は煌々と輝いており、イルゼは額に滲み出た汗を拭い、窓の外を眺めて一つため息をつく。 城に来て、早いこと一ヶ月が経過した。 あれ以降、イルゼは部屋の外へ出るようになり、メラニーにぴったりくっついて歩き、使用人の手伝いをこなすようになった。 そうして彼女と深く関わるうちに知ったが、メラニーの掃除技術はイルゼの予想を遥かに超えていた。 身のこなしが軽く、手際が抜群に良い。 高い窓の掃除も何のその。華奢な体で壁に指をかけ、腕力と脚力だけでよじ登り、難なく埃を払う。 どう見ても細い腕に、そんな力が宿っているとは思えない。そんなギャップにイルゼは毎度驚かされている。 ……それ以外で驚かされたのは、ミヒャエルからの手紙を渡す時だ。 最初こそ素直に手渡しだった。 だが最近、イルゼが気づかぬうちにディアンドルのポケットへ滑り込ませるのである。 最初は手品かと思った。けれど、それはすれ違いざま、指先が一瞬だけスカートの布を掠めるだけ。そして次の瞬間、ポケットに手紙が入っているのだ。 ミヒャエルからの手紙がない日は、包み紙にくるんだ飴玉やヌガーが入っていることもある。「いつ入れたでしょうか?」と、メラニーはにやりと笑って当てるゲームを始める。 ほぼ毎日のやりとりだが、いまだに一度も当てたことがない。 決してぼんやりしているわけではないのに、本当にいつ入れたのかわからない。 とんでもない技術だ、とイルゼは素直に感心していた。 そんなメラニーを含めて、城内で働く使用人は四人だけだ。 彼女の兄──ヘルゲとザシャとは、もうすっかり顔見知り。二人ともメラニーと同じく朗らかで、人見知りのイルゼでも少しずつ馴染み始めている。 そして、もう一人は、調理場を担当する初老の女だった。 赤みを含んだ茶髪に白髪が交じり、紅葉を終えて
「でもさぁ。メラニーがイルゼを思って持って菓子やお茶を運んで来たから、食べて欲しいなぁ。使用人には食材は好きにして良いって言っちゃいるけど、俺はメラニーに〝そんなことしろ〟なんて命じてない。これはメラニーの厚意だよ?」 そう言われて、メラニーを見ると彼女は、気まずそうな笑みをイルゼに向ける。 ……言葉は悪いが、やはり人を思い遣る心はある。 寧ろ、その厚意にさえ気づかず、一人で勝手に気負っていたのは自分自身。そう気づき、イルゼは黙って席についた。 「あの、熱いのに入れ直しますよ?」 主人の前だからか、メラニーは丁寧な口調で言う。 イルゼは首を横に振り、お茶を一口含んだ。生ぬるくなってしまったが、それでも充分に美味しい。寧ろ蒸し暑くなりつつある今の時期なら丁度良いと思えてしまうほどだ。 「折角だし、俺もここで休憩してくかなぁ。こんなにあるし、菓子貰っても良い?」 対面の椅子に座して、彼はテーブルの中央に置かれた焼き菓子に手を伸ばす。 「あ、旦那様のカップも持ってきますよ!」 メラニーは慌てて、部屋を出ようとするがミヒャエルはすぐにそれを遮った。 「別に良い。っていうか俺の部屋にカップあるし。階段上り下りするの面倒でしょー? っていうか、お前もお茶飲んで休憩して行けば良いんじゃね?」 ちょっと待って。と、菓子をモゴモゴと頬張りながら立ち上がった彼は、部屋に戻って行った。 そして暫く──二つのカップと椅子を引き摺って彼は戻ってきた。 しかし椅子まで。貴族の主人がするようなことではないのに。 イルゼは驚いてしまうが、メラニーも同様だった。慌ててメラニーは彼から椅子を奪うように取ろうとするが、ミヒャエルは面倒臭そうに首を振る。 「これくらい別に。ほら、お前はお茶汲んで。俺が淹れるより上手いんだし」 ──自分の仕事をしろ。と言って、ミヒャエルがテーブルにカップを置くと
驚くことだろうか? もう一声必要だろうか? イルゼはメラニーをジッと見つめて食い気味になる。 「メラニーお願い! 私お手伝いがしたい! お料理は最低限ならできる。お掃除はちゃんとできる。だって、だって! こんな待遇は絶対におかしい!」「ううん……その気持ちはありがたいよ。でも、あくまでも療養患者としてイルゼはいるわけだし……そこは私が判断を下せないわ」 彼女はこめかみを揉んで眉を寄せるが、「お願い」と、イルゼは念を押すように詰め寄った。 「分かった、分かったわ! じゃあ、その件は……旦那様に直接言うなりお手紙にするなり……」 すれば良い。と、彼女が言い切る前に「良いんじゃない?」とあの軽妙な声が響き、イルゼは目を丸くした。 その声に目をやれば、いつの間にか部屋を委ねたベールの前にミヒャエルが腕を組んで立っていた。 ……そうだ。大抵、彼は隣の部屋にいる。 勿論、外出していることもあるが、この二週間でそちらの方が希だった。 彼は、よほどのことがない限り表に出ないらしい。表の仕事の殆どをメラニーの兄たちに任せて、税金の割り当てや土地開拓の計画など主に事務作業をこなしていることが多いと、手紙のやりとりで知ったばかりだった。 表に出る時といえば、大きな金額が動く場合のみ。 ちなみにイルゼと出会ったあの時は、自警団の人件費や設備改良のために金を渡したついでに、どうやって人員を増やすかなどの相談に乗っていたらしい。 「あ……あ……旦那様すみません」 慌ててメラニーはヘコヘコと頭を下げと、ミヒャエルは少年のように悪戯気に笑んで「すげぇ取り乱し方」と嘲るように言った。 「まぁ。二週間も経つのに、イルゼは部屋に引きこもってるみたいだしねぇ。遠慮しすぎなん
────ミヒャエル様。私がローレライと知っていたのですね。 私がローレライと語ったのは貴方だけです。 いいえ、貴方以外の人にあの崖の上で会ったことがないので、私は貴方を鮮明に覚えています。貴方が忘れた本当の名を……。 そこまで書いてイルゼはペンを止め、こめかみを揉んだ。 あの夜から一週間近くが経過しようとしている。ミヒャエルことルードヴィヒとは幾度か手紙でのやりとりをした。それだけでなくお茶に二度も誘われたが、彼の口から昔の話は一度も出てこなかった。 ……いつか会えることを夢に見ていた。 つまり、ずっと探していたのだと思しい。本名を知る手がかりにして自分を探していたのだろうか。そう考えれば、療養と称したこのもてなしだって頷けるし、彼が金髪の娘に異常なほどの執着を持っていた噂も納得できる。 それなのに、彼はこの件を一切聞かないのだ。 果たして彼は何を考えているのか……。 イルゼは深いため息をつきつつ便箋を丸めてくずかごに捨てた。 (私から名前を教えて良いのか……) 出過ぎた真似かもしれない。聞かれるまで何も言わぬ方が良いか……。 イルゼが散らばった便箋を片付け始めたと同時──軽快な叩扉が二つ響いた。メラニーだろう。「はい」と短く返事して間もなく、姿を現したのは案の定メラニーだった。 「三時だしお茶はどう?」 彼女は穏やかに告げると、ワゴンを引いてテーブルの前までやって来る。だが、イルゼはすぐに立ち上がり、給仕を始めようとする彼女を遮った。 やはり、こんな好待遇は慣れないし、おかしいと思う。 「毎日、いいよ……私、お客さんじゃないし」 これを言うのはかれこれ三度目だ。イルゼがおどおどと言えば、彼女は深いため息をつき首を振る。
彼女を見た瞬間、本物の幽霊かと思った。 ローレライと呼ばれるこの岩山付近は流れが速く、舵が取りにくい。船が沈むと〝水死した幽霊が仲間を求めて人を引きずり込む〟とさえ言われるほどだ。 しかし── 「まさか、ここから飛び降りる気なの?」と訊かれ、頷いた途端、すぐに制止された。 その挙げ句、彼女の母親の言葉を聞かされた。 人生ってとても苦しいときもあるけど、素晴らしいものだと……。 前を向いて生きていけば、きっと幸せに繋がっていくと。 子どもからすれば、まるで夢物語のような耳触りの良い甘美な言葉だった。 そうして、彼女が歌い始めると、すぐに正体が〝ただの人〟だとわかった。 ……そう。亡霊にしては透けていなかったからだ。 彼女は至って普通の人間だった。この川のセイレーンであるローレライを自称していたが、それも違う。本物のセイレーンなら、この歌で川底に引き摺り落としていたはずだ。 だが、その時といえば、情けなくも怖じ気づいたままだった。 それでも、彼女と話して、歌を聴いているうちに、不思議と心の重い枷が外れるような心地がした。 「川底」を歌う歌詞はほのかに暗く、不気味にさえ思える部分はある。それでも、穏やかで優しいメロディーと彼女の歌声はあまりにも心地良かった。 彼女が何曲か歌い終えた後、やはり生きようと思い、城に帰る決意をした。 そうして、彼女と別れたが、その時自分が名乗ったかなんて覚えていない。 けれど、その後の日々はまたも凄惨な日々の繰り返しだった。 日々繰り返される折檻に、次第に心も頭も空っぽになっていった。使用人たちも見かねたのか、最終的に療養所へ入れられた。 だが、これが仕上げだったのだろう。 強い薬物で精神を徹底的に壊し、新しい人格を築かれたのだ。 幻覚を何度も見た。自我が剥がれ落ちる感覚も味わった。毎日、呪いのように植え付けられた〝ミヒャエル〟の名で、本当の名前がとうとう思い出せなくなってしまったのだ。